信長が絶体絶命の危機に陥った場所へ

姫路城、竹田城と巡ってきた中国地方ドライブ旅行記。今回は少し足を延ばして、福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡を訪れました。

今回の旅行では、戦国時代の歴史を感じられる場所をぜひ訪ねてみたいと思っていました。その中でも、以前から気になっていたのが、この金ヶ崎城です。

金ヶ崎城といえば、織田信長が越前の朝倉氏を攻めていた際、同盟相手だった浅井長政に裏切られ、絶体絶命の危機に陥った「金ヶ崎の退き口」で知られる場所です。

信長といえば、戦国時代を代表する武将であり、数々の戦いに勝利して天下統一へと突き進んだ人物です。しかし、その信長も決して無敵だったわけではありません。むしろ、この金ヶ崎では、敵に挟み撃ちにされかねない危険な状況に陥り、命からがら撤退することになりました。

そして、その撤退を支えたのが、後に天下人となる豊臣秀吉や、明智光秀らだったと伝えられています。

天下統一を目前にした英雄たちの物語ではなく、まだ先の見えない戦国の世を必死に生き抜いていた武将たちの姿を想像できる場所。それが金ヶ崎城跡です。

実際にその舞台となった場所を歩いてみたい。そんな思いで、敦賀市へ向かいました。

金ヶ崎公園駐車場から城跡へ

金ヶ崎城跡へは、金ヶ崎公園の駐車場に車を停めて、徒歩で散策しました。

車で訪れる場合も、駐車場を利用して歩いて見学することができます。城跡へ向かう道は整備されており、歩きやすく、散策するうえで特に不便は感じませんでした。

山城というと、険しい山道を長時間登らなければならないようなイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、金ヶ崎城跡は、歴史を感じながら自分の足で歩いて巡るのにちょうどよい場所です。

もちろん、坂道を歩くことになるので、歩きやすい靴で訪れるのがおすすめです。

駐車場から歩き始めると、周囲は緑に包まれ、静かな雰囲気が漂っています。現在は公園として整備されている場所ですが、ここがかつて幾度も戦いの舞台となった場所だと思うと、見慣れた風景も違って見えてきます。

まずは、神社にお参りすることにしました。

目の前にあるのは金崎宮です。現在では桜の名所としても知られていますが、ここには南北朝時代から続く、非常に重い歴史があります。

戦国時代の「金ヶ崎の退き口」だけを知って訪れると、意外に感じるかもしれません。しかし、金ヶ崎の歴史は、信長が生きた時代よりもさらに古いところから始まっているのです。

南北朝時代にも繰り広げられた激戦

金ヶ崎城が歴史に名を刻んだのは、戦国時代だけではありません。

時代をさかのぼること約230年、南北朝時代にも、この地は激しい戦いの舞台となりました。

当時、後醍醐天皇の皇子である尊良親王と恒良親王が、南朝方の拠点として金ヶ崎城に入っていました。しかし、北朝方の足利勢に攻められ、城は厳しい籠城戦を強いられることになります。

山と海に囲まれた地形は、敵を防ぐうえで有利な一方、長期間の籠城となれば、兵糧や援軍の確保が難しくなります。

やがて城は落ち、尊良親王は自害したと伝えられています。また、恒良親王も捕らえられ、のちに亡くなりました。

境内には、この南北朝時代の悲劇を伝える史跡があります。

戦国時代の武将たちが活躍するずっと前から、金ヶ崎は権力を争う者たちにとって重要な場所だったのです。

同じ山、同じ海を眺めながら、時代を超えて何度も戦いが繰り返されてきた。そう考えると、この場所が持つ歴史の深さを感じます。

城跡を歩く前に、まずはこうした歴史に思いを巡らせることができたのも、今回の訪問の大きな意味でした。

信長を追い詰めた「金ヶ崎の退き口」とは?

さて、ここからが今回の訪問で最も楽しみにしていた歴史の舞台です。

時は1570年、戦国時代。織田信長は、天下統一へ向けて勢力を拡大していました。将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たし、各地の大名に対しても強い影響力を持つようになっていた頃です。

そんな信長が次に目を向けたのが、越前国を支配していた朝倉氏でした。

信長と朝倉氏の関係は、単純な敵対関係ではありませんでした。信長は、朝倉氏が将軍・足利義昭の上洛要請に応じないことなどを理由に、越前への攻撃に踏み切ります。そして、朝倉氏の領国へ侵攻し、金ヶ崎城などを攻略していきました。

ところが、信長にとって想定外の事態が起こります。

同盟関係にあった近江の浅井長政が、信長に敵対する側へと回ったのです。

実は、浅井氏と朝倉氏には長年の関係がありました。信長と浅井長政が同盟を結んだ際にも、朝倉氏との関係をどう扱うかが重要な問題でした。信長が朝倉氏を攻めたことで、浅井氏は信長との同盟よりも、従来の朝倉氏との関係を優先したと考えられています。

信長にとっては、まさに背後から刃を突きつけられたような状況です。

前方には朝倉軍、そして後方には浅井軍。進軍を続ければ挟み撃ちにされる危険がありました。

せっかく優勢に進めていた戦いも、ここで一気に危機へと変わります。

信長は撤退を決断します。

この撤退戦こそが、後世に「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる出来事です。

ここで興味深いのが、信長の撤退を支えた武将たちの存在です。

後に天下人となる豊臣秀吉、そして本能寺の変で信長を討つことになる明智光秀らが、撤退を支える殿(しんがり)を務めたと伝えられています。

殿とは、退却する軍勢の最後尾に立ち、追撃してくる敵を食い止めながら味方を逃がす役割です。

普通に考えても、非常に危険な任務です。味方が先へと退いていくなか、自分たちは敵の攻撃を受け止め、簡単には退くことができません。場合によっては、敵に包囲され、全滅する危険さえあります。

つまり、殿を務めるということは、味方の命を救うために、自らが危険を引き受けることでもあったのです。

しかも、この時点では秀吉も光秀も、後世に知られるような天下の大人物になっていたわけではありません。彼らがどのような思いでこの撤退戦に臨んだのか、想像するだけでも興味が尽きません。

特に秀吉は、このような危険な任務を果たすことで、信長からの信頼を得ていったと考えられます。ただし、撤退戦の具体的な経過や各武将の役割については、史料によって伝わり方に違いもあります。

いずれにしても、この金ヶ崎での危機を乗り越えた信長は、その後も勢力を拡大していきます。

そして、同年6月には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍と激突。信長・徳川家康の連合軍が勝利しました。

金ヶ崎の退き口は、単なる敗走ではありません。信長が大きな危機に直面しながらも、軍勢を立て直し、再び反撃へと向かうための重要な局面だったのです。

金ヶ崎戦場跡の碑から、当時の戦いを想像する

神社へのお参りを済ませ、さらに山道を登っていきます。

途中には「金ヶ崎戦場跡」の碑があります。

ここが、実際に歴史上の戦いが繰り広げられた場所なのだと思うと、自然と足が止まります。

現在は木々が生い茂り、周囲の景色が大きく開けているわけではありません。しかし、目の前にある風景を眺めながら、500年以上前の出来事を想像してみると、ただの山道とは違った意味を持ってきます。

あの方向から朝倉軍が迫ってきたのだろうか。

信長は、どの道を通って撤退していったのだろうか。

浅井軍が背後から迫ってくることを知ったとき、信長や家臣たちは何を考えたのだろうか。

そして、秀吉や光秀らは、このあたりで追撃してくる敵を食い止めながら、味方を逃がそうとしていたのだろうか。

もちろん、現在の景色だけから当時の戦場の位置や戦闘の詳細を正確に判断することはできません。それでも、こうした想像を膨らませながら歩けることが、城跡巡りの面白さだと思います。

天守閣が残る城を訪れると、建物の立派さや石垣の美しさに目を奪われます。一方、金ヶ崎城跡には、当時の城郭建築がそのまま残っているわけではありません。

だからこそ、想像力が必要になります。

武将たちがどこに陣を構え、どのように敵の動きを見極め、どの方向へ退却していったのか。地形を手掛かりに考えることで、歴史が少しずつ立体的に見えてくるような気がします。

月見御殿跡から若狭湾を一望

さらに登っていくと、いよいよ城跡の先端にある月見御殿跡に到着しました。

ここからは、若狭湾を一望することができます。

<画像:月見御殿跡から眺める若狭湾>

それまで木々に遮られていた視界が開け、目の前には広々とした海が広がります。

思わず立ち止まって景色を眺めたくなる場所です。

山の上から海を見渡すと、金ヶ崎城がなぜこの場所に築かれたのか、その理由も何となく分かるような気がします。

敦賀湾に突き出すような地形は、周囲の動きを把握するうえで重要だったはずです。山と海に囲まれた立地は、敵の進路を制限し、防御する側にとって有利な条件を備えていました。

一方で、退路や補給路が限られることは、攻められた場合の弱点にもなります。

南北朝時代にも戦国時代にも、この地が戦いの舞台となったのは、こうした地形的な条件も関係していたのでしょう。

現在は穏やかな海ですが、当時の武将たちにとっては、戦略を考えるうえで重要な景色だったに違いありません。

この場所からは、どのような思いで海を眺めていたのでしょうか。

敵の動きを警戒しながら、援軍を待っていたのか。それとも、これから始まる戦いに備えて、周囲の地形を確認していたのか。

月見御殿跡という名前からは、月を眺めながら過ごす静かな場所という印象も受けます。しかし、この地には戦いの記憶も深く刻まれています。

現在の穏やかな景色と、かつての緊迫した状況。その対比がとても印象的でした。

建物がなくても、歴史を感じられる城跡

金ヶ崎城跡には、姫路城のような天守閣も、壮大な石垣もありません。

しかし、実際に歩いてみると、歴史好きには十分に見応えのある場所でした。

特に、金ヶ崎の退き口という具体的な出来事を知ったうえで訪れると、見えるものが変わってきます。

「信長は、あの方向へ逃げたのだろうか」

「秀吉たちは、この山のどこかで敵の追撃を防いだのだろうか」

「もし浅井軍と朝倉軍に挟まれていたら、どのようにして逃げ切ったのだろうか」

そんなことを考えながら歩いていると、教科書で読んだだけの歴史が、目の前の風景と結びついていきます。

そして、ここで戦った武将たちにも、それぞれの事情や思惑があったはずです。

信長にとっては、命を懸けてでも生き延びなければならない局面でした。秀吉や光秀らにとっては、主君を守り、自分たちの命運も懸ける戦いだったでしょう。

一方、敵方の朝倉氏や浅井氏にも、それぞれの領国や家を守るという事情がありました。

戦国時代というと、天下取りを目指す武将たちの華やかな活躍に目が向きがちです。しかし、実際には同盟が破られ、情勢が一変し、一歩間違えれば命を落とすような厳しい世界でした。

金ヶ崎城跡は、そうした戦国時代の現実を感じさせてくれる場所でもあります。

また、ここは南北朝時代にも激しい戦いがあった場所です。時代は違っても、人々がこの地で戦い、命を落とし、歴史をつくってきたことに変わりはありません。

何もないからこそ、そこにあった出来事を自分の頭の中で組み立てていく。そんな楽しみ方ができるのが、城跡巡りの魅力だと思います。

まとめ|歴史を知って歩くと、城跡巡りはもっと面白い

今回訪れた金ヶ崎城跡は、戦国時代の「金ヶ崎の退き口」を実感できる、非常に興味深い場所でした。

神社にお参りし、南北朝時代の歴史に触れ、金ヶ崎戦場跡の碑を見ながら山道を登り、最後に月見御殿跡から若狭湾を眺める。

散策そのものは、自然の中を歩く気持ちのよい時間です。しかし、その背景にある歴史を知っていると、同じ景色でも感じ方が大きく変わります。

特に、信長が浅井長政の離反によって窮地に陥り、秀吉や光秀らが撤退を支えたという話は、実際にこの場所を訪れることで、より身近な出来事として感じられました。

戦国時代の歴史が好きな方なら、一度は訪れてみる価値があると思います。

今回の中国地方ドライブ旅行では、城や史跡を巡りながら、日本の歴史を改めて考える機会が増えました。

本や映像で知る歴史も面白いですが、実際に現地へ足を運び、自分の目で地形や景色を確かめると、新しい発見があります。

金ヶ崎城跡は、まさにそんな場所でした。